太宰治の作品に見られる虐待の影
五十嵐宗雄
上野発夜行寝台急行津軽に、見送りの級友らによる万歳三唱に送られて乗り込み、弘前の大学へ向かったのは40年以上前ではあったが、我が青春の舞台となる弘前に熱い気持ちを抱きながら、太宰治の「津軽」を読んだ記憶は未だ色あせず記憶に残っている。見知らぬ北国弘前を「津軽」が暖かく語り、微笑んで迎えてくれた。
太宰論は従来より極めて多いが、生誕100年に当たる今年、その評論は特に目立つ。かつて手が付けられていなかった、作品の映画化も始まった。太宰を評価しない人は多く、彼らは「人間失格」のような暗く逃げ場のない世界を生理的に嫌う。太宰を評価する人でも「はしれメロス」と「ヴィヨンの妻」が同じ作家によるものとは信じ難いとか、揚げ句は「津軽」、「富岳百景」、「お伽草子」の様なものだけを書いていれば良かったとする意見まで見られる。多くの人は彼の二面性に戸惑っているように見える。しかし太宰文学の本質を理解するにはこの爽やかさと暗さの二面性こそが重要であり、太宰文学の本質とも言える。この二つを結びつけるには彼の被虐待児としての心の闇を明らかにしなければならない。彼が受 けた小児期の心的外傷が人格解離を作り、その人格解離こそが二面性に他ならないのである。彼の放埒なその私生活も太宰嫌悪の大きな要因になっている。当時無頼派と呼ばれる作家は多かったが、太宰の度重なる自殺未遂は、そのなかでも受け入れがたい奇矯な行動として捕えられている。この繰り返す自殺未遂は、境界性人格障害の特徴であり、太宰文学を理解するためには精神医学的な見地から分析する必要があるが、未だそのような視点からの評論は少ない。
太宰が両親より虐待を受けていたとする、証言、記述はあまり見ない。彼の受けた虐待は両親からのネグレクトと使用人から受けた性的虐待であるが、当時の社会状況はそれらが程度の差はあれ日常的に見られたため、あまり注目されてこなかったのであろう。彼の作品の中に両親、家族を非難する記述は目立たない。彼自身それが取り立て、異常なことと感じていなかったのだろう。しかし虐待の観点から子細に作品を見ると虐待の事実を語っている部分が少なからず見つかり、それが彼の人格形成に大きく影響を与えていると推測できる。特に彼の遺書と言われる「人間失格」には多くそれらがある。
彼は10人兄弟の6男として生まれ、姉が4人いる。2人の兄は夭折している。青森県金木の資産家であり、兄弟が多く使用人も多かった。14才の使用人たけが、子守として3才の大宰を6年間母親代わりの世話をしている。その間母親の影はほとんど見当たらない。14才の少女がどこまで母親代わりができたか、はなはだ疑問である。たけが津島家を離れてからも母親の影は希薄である。「津軽」の中で、たけが津島家を離れてから、初めて再会した場面が書かれている。その中で彼はたけに対する肉親に近い情を熱く語っている。
平和とは、こんな気持ちのことをいうのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかなりっぱな母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。
「津軽」より
母親を非難するような記述では決してないが、母親の愛情の希薄さをさりげなく十分に語っている。不思議な安堵感とは母親特有の無償の愛を意味する。それが与えられなかったと言うことは、母親のネグレクトがあったと考えざるを得ない。「津軽」は全体に抑えた筆致で書かれているが、彼の生い立ちと、人格の歪みが、強く結びついていることを伺わせる箇所が随所に見られる。その語り口が穏やかに抑制されたものであるため、多くの共感を得ることができ、評価の高い作品になっている。しかしその末文は多少含みを持った書き方になっている。
まだまだ書きたいことが、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日、元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
「津軽」より
かなり思わせぶりな記述であり、解釈は色々あるだろう。私は、太宰がこれでは書き足らなかったと言っていると理解した。書き足らなかったことを全てぶちまけたのがこの4年後に発表された「人間失格」だったのだろう。「人間失格」の中でも両親の虐待について具体的には書かれていない。しかし父親の虐待があったことを伺わせる記述は認められる。父親の訃報を聞き、「自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐かしく恐ろしい存在が、もういない。自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。」と書いている。また小説の最後は、次の文章によって終わっている。
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
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